映画館に住みたい。

邦画を映画館で観るのが大好きな40代がtwitterでネタバレを書けずにblogへ流れてきました。

ネタバレあり/オムライスの妄想から。

 『太陽は動かない』のオムライスの妄想について、映画・ドラマ・原作のネタバレを含むひとりごとです。

 

 

こんなツイートをした後で…

(↑ ネグレクトの末に亡くなった弟のことを思って、オムライスを半分残したのでは?という私の勝手な妄想です)

 

そういえば、 原作ではオムライスはそれほど印象深いエピソードでもなかったなと思い、ぱらぱらと見返してみました。

すると、鷹野はオムライスをがつがつと食べていますし、食べたのはなんと河上邸への初回訪問時です。完食したのかは不明ですが、半分残すとは思えない食べっぷり(ちなみに河上の息子が誘拐されたという設定は原作も映画も同じ)。


「ひょっとして、映画でオムライスを半分残したことに大した意味はなかったのでは…?」と思い、あのツイートは削除するべきかとも考えたのですが、全く意味がないとも思えないんです。

というのも、風間邸で鷹野の幼少期の話を聞くのは原作では代議士の五十嵐であるのに対して、映画では河上。河上が聞くのであれば、半分残したオムライスに意味をもたせたとしてもおかしくありません。

 

オムライスは妄想の域を出ない話ではあるのですが、 映画・ドラマの鷹野は原作と比較して、田岡を弟のように思っていることをやや強く印象づけるような表現にしているのでは?と感じています。

これは映画の田岡が原作の張雨も兼ねた設定になっている影響が大きいのだと思います。例えば、ヘリを操縦するのは原作では張雨で、田岡は日本にいます。この他でも、原作の鷹野と田岡はバディでありながら別の場所で行動していることが多く、張雨が鷹野といることが多々あります(でも、原作の田岡は優秀で、離れていても鷹野をしっかり支えていて、この田岡もまた素敵です)。

鷹野が幼少期に『飛行機に乗って、乗り物に乗って…』と夢を語っていたことを風間が河上(原作では五十嵐)に話しますが、これが原作で読むよりも、映画で聞くほうが「鷹野。田岡と車に乗ったし、電車にも乗った、ヘリにも乗った、飛行機にも乗ったね。一緒にいろんな乗り物に乗って、あちこち行ったね…」という思いがこみ上げてきて、私は泣けるんですよね。

ちなみに、田岡はヘリが墜落するときに意識を失っていますが(鷹野が必死に呼びかけてる姿が泣ける…)、原作の張雨はそんなことはなく、鷹野とともにパラシュートで脱出します。田岡は沈没しそうな船の中で映画ではあんな感じですが、原作では生きる気力ありまくりでちゃんと頑張ってます。こういった「田岡が命を落としそうになる局面で鷹野が必死になる」というシーンが入っていることで「田岡=弟のような存在」であり、もう二度と弟を失いたくないと思っているのではないかという気がしてくるんですよね……全部勝手な思い込みですけど。
だから(これもまた思い込みですが)鷹野の幼少期の夢を知っている風間が、ひとりでも問題なく任務をこなせる鷹野に、足手まといになりかねない田岡(かなりの弟キャラ)を組ませるという親心が泣ける…。

原作者が実際にあったネグレクトの事件から着想を得て書いたらしいので、映画・ドラマはここを描こうとした結果、こういうシーンになっているのではないかと思ったりしています。

アクションも確かにすごいな!と思うんですが、鷹野、田岡、風間の人物像に惹かれる作品でした。田岡の、心の底には常に大きな不安を抱えていて溢れそうなのに、表面的には明るい男の子!っていう竹内涼真さんの演技には心を揺さぶられて、特にドラマの2話の最後あたりはかなり好きです(悲しすぎて泣いてしまうんだけど、何十回も観ました…)。

話、変わりますけど。twitterじゃ書けないので…

私、山下がかなり好きで。

調布の先行上映で観たとき、山下がいきなり死んだので、呆然としました。死ぬんだろうなとなんとなく分かってたけれど、胸の起爆装置で死ぬのか…と。これでもう続編が作られたとしても山下はいないってことか…と。なんとかして、AN通信が山下を蘇らせてくれないかな…と今日も思っています。AN通信、なんでもできそうじゃん。頼むよぉ。

しかも、調布の日は『ヤクザと家族』を観た後で『太陽は動かない』だったんですよ。市原さんに泣かされる一日でした。

 

そんな感じで「オムライスの妄想から。」でした。