映画館に住みたい。

邦画を映画館で観るのが大好きな40代がtwitterでネタバレを書けずにblogへ流れてきました。

ネタバレあり/賢治と由香の距離(車と橋と敷居)

男性装でマスクもしているので、レディースデイは「性別確認されるかな」とドキドキするのですが、窓口で声を出す前に「本日レディースデイで1100円です」と言われてほっとしました(今日はネット予約がない映画館)。

今回も『ヤクザと家族』を観ての感想とも言えないひとりごとです。
ネタバレを含みます。


2019年に、賢治が由香の居場所を見つけ、会いに行きますが、夜、由香の家の近くで車を止めて、家に何か(300万円)を取りに行った彼女を待っていたところからのシーン。
最初に観たときに「ん?」と違和感があったけれど忘れてて、今夜唐突にそれを思い出すとともに、自分なりの答えが出てすっきり。

あの待ってたカット、綾野さんをかっこよく撮るとしたら、車の中で待たせずに、車か橋の欄干にもたれかかるように立たせたいよね、自分なら…と思ったんです、初見のとき(敢えて「賢治」じゃなくて「綾野さん」です)。
賢治を車の中に入れとく理由がきっとあるよね…と思いながらもそのときは深く考えずに終了。

どこに行くにも車!という車社会の地方で育った私は、賢治も車に乗って由香に会いに行ったというリアリティーだなと一時期思ってたんですが。

今夜唐突に思ったのは。
由香と賢治が「もう会わないほうがいいと思う」「俺んとここないか?」「それはできない」「お前一人くらい~」と、微妙に距離があるっていうか、隔てるものがあるっていうか、そんな会話をしていますが、この隔たりを表してるのが車(のドア)なのかな?と。
で、それを賢治がばんっとドアを開けて「今なんか言おうとしたろ、言えよ」と由香に言う。このドアを開ける行為が、賢治が現状をぶち破ることの比喩?暗喩?なんかそういうので。
そして、その後で話しているのが橋の上で、「ヤクザの世界」と「カタギの世界」の間に立っていることを表している。
っていう、相変わらずの妄想レベルの深読みです。

車社会の地方が舞台だからこその描写だと思いますけど。
あのシーンに車がなくて、ただ立っている状態から同じ台詞を言っても、画としてここまでは面白くはないんだろうなと思います。

という自分なりの(自分勝手な)答えに鑑賞中に行き着いてしまったので、その後のTwitter騒動の末に、由香が賢治を拒絶するシーンもなんとなくそういう視点で観ていたのですが(ハンカチ握り締めて泣きながら)。

由香がうずくまった後で、ずりずりと下がって「出ていってください」と言うのは、敷居よりも下がることに意味があるのかも…。「敷居が高い」とか言うように、あの敷居は視覚的に拒絶を示すのに一役買ってたりするんじゃないかな。なんだけど、所詮敷居なんですよね。跨ごうと思えば全然跨げちゃう。
「出ていって」は本心だと思うけれど、本気の「出ていって」はドアから押し出して鍵かけるくらいやると思う。だから、由香の拒絶はやっぱりそんなに単純な気持ちじゃないんだな、と改めて思いました。

今日も妄想が炸裂してしまった。

育ったところがほんとに車社会で、家に大人の人数分の自家用車があっても全然おかしくないんですよ。帰省中、徒歩7分のコンビニに普通に歩いて行こうとしたら親が「え!?歩いていくの!?車で行きなさいよ!」って言うくらい。
地方はそんな感じなので、賢治と由香が市役所で再会したときは賢治の車に同乗したんじゃなくて、それぞれ自分の車に乗って移動したんじゃないのかなと思ってます。

長くなったのでこのあたりで終わります。
次に観に行けるのは週末かな。それまでお仕事をがんばります。