映画館に住みたい。

邦画を映画館で観るのが大好きな40代がtwitterでネタバレを書けずにblogへ流れてきました。

究極の自分語りを(セクシュアリティとジェンダーの側面から)

映画『エゴイスト』を観てのひとりごとを書きたいのですが、その前に、セクシュアリティジェンダーの側面から、私についてのひとりごと。


『エゴイスト』の文庫版が発売になったその日の早朝に買い、通勤時間や昼休みを使ってその日のうちに読み終わった。
普段それほど本を読まない私が珍しく集中して読んだ小説。

本よりも映画が好きだから、原作を読むとしても後にすることが多い。
だが、この作品に限っては「原作が先で大丈夫。だって、鈴木亮平だもの。絶対に原作を超えてくる」と思ったから原作を先に読むと即決。

鈴木亮平さんが書いた「あとがき」を読んだのは会社や電車の中ではなく、自宅だった。自宅でよかった。

私は少なくともシスジェンダーではない。
そして、学生時代にセクシュアルマイノリティに関する研究をしていたくらいにはそれを隠す気はさらさらないのだ。
学生生活も残り3か月となった24歳のある日、「私の好きな女の子が…」とさらりとことばにしたその瞬間、自身のセクシュアリティについて家族から罵られるという出来事があった。ショックのあまり、直後に自殺を図った。

死ねなかったから就職した。

一般企業に就職後は「マナー」という名前のついた「女性らしさ」の枷を嵌められた。
それが当たり前の時代。
違和感しかない女性の服装と髪型と化粧で装う日が15年以上続いた。

40歳を過ぎて人生の折り返しを意識したとき、着たくないものを買って着て終わっていくのは虚しすぎて、何を言われようとも残りの人生は好きな装いで生きていくと決めた。
それは私自身の意思ではあったけれど、オフィスカジュアルの浸透だとか、ジェンダーの多様性を受容しつつある社会の動きだとかが後押しになったのは確かだ。

そして今、男性の服装と髪型で仕事もプライベートも過ごしている。

嫌悪感なく鏡の中の自分を見られるようになった。
胸を張って歩けるようになった。
こんな日々をもっと早く手に入れたかった。

そんなことを思いながら生きている。

私はやっと私のことをもう一度好きになれた。
40歳を過ぎて。やっと。


ジェンダーは時間がかかっても解決ができたけれど。
家族からの侮蔑という事実が重すぎて、セクシュアリティについては自分の気持ちに向き合うこともできないし、ましてや、行動に踏み出すことなんてできなかった。

セクシュアリティを罵られたあの瞬間、自分という人間の根幹をへし折られたような気がした。しかもそうしたのは、これから先も付き合わざるを得ない家族。へし折られることをこの先もずっと受け入れ続け、人間としての根幹を失ったままの人生に意味があると思えなかった。
だから、人生を終わらせたかった。

その決断を自分の弱さゆえだと悔やんだり、責めたりしてきた。
その反面、いつ死んでもいいと思いながら生きることしかできなかった。
あの瞬間に、私の中の「何か」はやっぱり死んでしまったんだろう、と。

そんな私が「あとがき」の最後のことばを読んだ瞬間、ぼたぼたと涙がこぼれた。
死を選ぶ人たちがいることについて、誰が、何が変わるべきなのかを大好きな俳優がはっきりとことばにしてくれた。それを読んで、あの日の自分を私自身がやっと包み込めたような気がしたし、包み込まれた私が泣きながら心の中で叫んだのは「死にたくなった私じゃなく、死にたくなるようなことを言った親が悪いんだ!」と、おそらく心の奥深くにずっとずっと封じ込めていた怒りだった。親に対する直接的な怒りというよりも、他者のセクシュアリティに対して侮蔑する言葉を平気で吐き出せるような人がいる社会に対する怒りだ。

それが昨年の出来事。
それから次第に、本当はどんな人が好きなのかが分かるようになってきた。
40歳をとっくに過ぎて、やっと。
気を使ったり、規範という無意識のフィルターをかけたりすることなく、本当に好きな人。
こればっかりは相手がいることなので自分の意志ひとつで、とはいかないけれど、分からないまま死ななくて良かったと思いながら、恋をしている。
顔も年齢も知らないけれど、時折感情が微かに滲むこともある柔らかい声を持ち、話しぶりと書きぶりから知的な印象がある女性にすっかり恋をしている。

 

 

私が育った町には映画館がない。町にいた18年間に映画館で観た映画は10本あるかないかだった。その町に今も住む親はケーブルテレビで映画を観ており、亮平さんの出演作が放送されれば観ているらしい。

だから、『エゴイスト』が放送されたら親は観るかもしれない。

観たら少しは認識が変わるかもしれない。

愛が何なのか分からないと苦悩する、同じ人間なんだって分かってくれるかもしれない。

 

映画やドラマでマイノリティを描く際、当事者性の課題がよく語られ、それは一応理解できる。だけど、この私の「期待」のように、(当事者性を問わずに)名の知れた俳優が演じることで生まれる効果もあるんだと思う(それは当事者からかけ離れることがない設定と演技であってほしい)。

それを重ねていくことでセクシュアリティジェンダーへの偏見がなくなれば、それはオープンに語れることへと変わり、当事者が演じるのが当然になる、という流れを凡人であるせいか、つい思い描く。

 

 

残りの人生、もし叶うのなら、誰かを愛して愛されて、これは愛かエゴかと葛藤しながらも、互いの人生に互いが存在することを幸せだと思って生きていきたい。

だから、そろそろ、もう一歩踏み出すときなんだと思う。

そして、「私はこの人を愛してる」と笑顔で言える日が訪れるなら、それ以上の幸せはない。